東京高等裁判所 昭和32年(ネ)2040号 判決
控訴人がその所有に係る静岡県磐田郡袋井町高尾七百四十六番地の五宅地百七十九坪一合一勺の地上に家屋番号高尾第九〇番の二木造瓦葺平家建住家一棟建坪十五坪を所有していたところ、昭和二十一年一月三十日これを訴外堀江吉太郎に売渡すと同時に同人に対し、右建物の敷地三十坪を賃貸したこと、その後被控訴人は昭和二十三年春頃堀江吉太郎から右建物を買受けるとともに右敷地の賃借権を譲受けたこと、控訴人は昭和二十五年十二月一日被控訴人を相手方として浜松簡易裁判所に右建物収去土地明渡の調停申立をなし(同庁昭和二十五年(ノ)第三七号事件)、昭和二十六年一月十九日両者の間に調停が成立したこと、その調停条項には、被控訴人は右建物を同年十二月三十一日までに同一地番内の宅地西南部約四十一坪の部位に移動することを要する一方控訴人は右土地約四十一坪をそのうち十一坪は時価の半額である一坪金三百五十円の割合、そのほかの部分は無償という対価計算で被控訴人に譲渡する趣旨が定められていたこと、その後右調停により譲渡された土地約四十一坪は分筆されて主文第二項記載の土地となつたこと及び被控訴人はその後右譲受土地の上に前記家屋すなわち本訴建物を移動したことはいずれも当事者間に争がない。(中略)
ところで控訴人は、右調停条項を応諾したのは控訴人と堀江吉太郎との間の賃貸借が一時使用のためのものであること明らかな場合に該当するにかかわらず控訴人においてこれを普通の建物所有のための賃借権と誤解したことによるものであるから、右調停はその要素に錯誤があつて無効であると主張する。証拠を総合すれば、控訴人は出征して前記売買契約当時はまだ復員せず、右売買は控訴人の父高橋八十一が控訴人を代理して締結したもので、同人は、昭和十九年中同地方に震災があり、建築材料の需要が多かつたため、前記家屋及びこれに隣接する他の家屋一棟をいずれも取毀撤去を条件として(中略)本訴家屋を堀江吉太郎に、他の一棟を日本国有鉄道にそれぞれ時価の約半額で売却したもので、そのため各買主との間に、買主は目的家屋を昭和二十五年十二月末までに取り払い撤去すべく、買主が右家屋を他へ譲渡する場合には右撤去義務を譲受人に承継させること及び右家屋の敷地は右撤去期間満了までの間を限つて買主に賃貸することを確約し、その旨を契約証書に明記して取り交わしたこと、なお日本国有鉄道はその買受けた家屋を約定通り昭和二十五年中に撤去したことを認めることができ、右事実によれば、本件家屋の敷地の賃貸借は借地法第九条にいわゆる一時使用のための借地権を設定したことの明らかな場合に該当する。(中略)
ところで成立に争のない甲第二号証、原審証人磯部貞孝、同藤原俊直、原審及び差戻前の第二審証人高橋八十一の各証言並びに原審、差戻前の第二審及び当審における被控訴人本人尋問の結果を総合すれば、控訴人は被控訴人が約定期限までに右家屋を撤去することを拒絶したので前記調停申立をなすに至つたのであるが、第一回調停期日に控訴人を代理して出頭した高橋八十一は、右賃貸借が一時使用のためのものであることを主張して建物の収去土地の明渡を要求し、被控訴人はこれに対し右賃貸借は普通建物の所有を目的とする通常の賃貸借であると主張して相譲らなかつたところ、高橋八十一は、当日調停主任裁判官より借地法第二条の規定を説明の上再考を求められたので右賃貸借には同条の適用があることを示唆されたものと思い込み、期日終了後自ら六法全書を調べたりした結果、右は普通の建物所有のための賃借権であると誤信するに至り、第二回調停期日である昭和二十六年一月十九日には再び控訴人を代理して出頭した上調停主任裁判官に対し、一時使用のための賃貸借を主張することは撤回する旨申出で、右賃貸借には借地法第二条の規定の適用があることを前提として前記調停条項を応諾し調停を成立させるに至つたものであることを認めることができる。右のように、本件調停成立に至る過程においては控訴人に錯誤があるわけであるが、調停の対象となつた私法上の権利又は法律関係について和解が成立したときは、仮に従前における権利の存否内容が和解の内容と異る場合であつても、その権利は和解によりその内容通りに移転又は消滅したことになり、錯誤による無効の主張を許さないものであるから、本件においても更に右和解の内容を検討しなければならない。本件においては、右のように調停成立の時には控訴人は本件賃貸借が普通賃貸借であることを前提として和解をしたものであつて、一時賃貸借の主張を譲歩する趣旨は和解の内容そのものには含まれていない。控訴人は、調停の第一回期日までは一時賃貸借の主張をしていたけれども、その後自らの錯誤によつてその主張を一方的に撤回したものであり、それは調停成立前の出来事であつて調停成立の際の相手方との和解契約によつて譲歩した結果ではない。そうして、もし一時賃貸借に基く主張を譲歩することが和解の内容を成しているならば、たとえ真実の賃貸借関係は一時賃貸借であつたにせよ和解は有効であり錯誤の主張を許さないこと民法第六百九十六条の規定により明らかであるけれども、本件では右のように一時賃貸借の主張を譲歩することが和解の内容を成していない以上、この点については民法第六百九十六条の適用はなく、もし控訴人が本件賃貸借を一時使用のための賃貸借でないと考えたことに要素の錯誤があれば、これを前提とする本件和解は無効であるといわなければならない。本件では控訴人の一時賃貸借の主張は単に調停申立以前の主張であつたに止まらず、調停申立自体においても、又第一回調停期日においても維持されていたのであるから、第二回調停期日において成立した調停はあたかもこの主張を含めた全部の事項についてなされたかのような観があるけれども、実はそうではなく、控訴人の代理人は第二回調停期日において調停成立前に裁判所に右主張をしない旨を申出で、その後互譲の結果調停が成立したものであること前示のとおりであるから、通常見るように調停の当事者が最後まで当初の主張を維持しながらも漸次妥協の線を縮めて遂に各自の主張の全部について互譲による調停を成立させた場合と異り、控訴人が当初主張した一時使用のための賃貸借の点は本件調停の内容をなす譲歩の対象になつていない。従つて控訴人の前掲錯誤は調停によつて決定された紛争の目的たる事項そのものには存せず、その前提をなす他の事項について存していたわけであり、この点については民法第六百九十六条の適用はない。そうして控訴人が係争土地の明渡請求につき和解をなすについては、相手方の主張する賃借権が一時使用のためのもので既に消滅しているか或は借地法第二条の適用のある借地権でなお存続中であるかは極めて重要な事項であつてこの点の錯誤がなければ前記のような和解をするはずがないということは敢て控訴人の場合だけに限らず一般的にもいうことができるのであるから、右の錯誤は契約の要素の錯誤に該当するものというべく、これを単なる動機の錯誤に過ぎないという被控訴人の主張は採用できない。
(坂本 堀田 小沢)